昭和40年01月02日 夜の御理解
今、御祈念前に麻生さんがここにお届けにみえられて、只今の久富先生ところの息子さんを久留米駅までお送りさせて頂きました、と。おそらく単車でみえとるでしょうけれども、今日はお正月で和服でみえとられます。言うならオートバイなんかには乗りにくい言わばスタイルでみえとるわけですけれども、と言うて、んなら久富先生の息子さんとおそらくここで初めて会ったんでしょう、三番目の息子ですから。
今日はここに年始に出て来ておりましたから。それも自分が乗るとぢゃない、ただ友人を何時の汽車で送らんならんという程度の事だったらしいけれども、なら僕が送ってあげましょうと言うて、送ってきたらしい。そして今帰らして頂いたと言うお届けを聞かせてもろうてから、「麻生さん、有難う」ち言うてから私がお礼を言いたい気がしました。ね。私はこの親切という、ね、親切がなからなければおかげ頂かれません。
例えばです自分の心安い人とか、自分の好きな人にいくらそりゃ親切にしとるようであっても、それは本当の意味の親切ではありません。それは初めて会うた人でも、自分の言わば嫌いなタイプの人でも、親切が使えるその親切でなからなければ神様には通わんです。これもいま御祈念前に久富さんがお届けされますように、お夢の中に朝晩ああしてお参りになりますから神様が下さったんでしょうね。『耳が肥えていくだけではなくて心も肥えていかなければならん』ということを頂いておられます。ね。
御理解を頂きますと耳が肥えます。まあ、言うなら<しかたのない>話ぐらいは、もう耳を傾けもいたしません。ね。おいしい物を頂きつけておりますと、お粗末な物なんか頂けんようなものじゃないでしょうか。ね。おいしい物を頂くということはね、自分のやはり血に肉にならなければ、おいしい物を、おいしい物としての値打ちがない。御理解を頂くでもそうです。ただ耳が肥えただけじゃいかん。ね。それこそ耳だけが極楽行きしとるということじゃいけんでしょうが。
私たちは自分の心の中に、ハァーこんな事でいいだろうかと。自分ながら愕然とするような冷たい心が、自分の心にあることがございます。それを私は放任してはいけないと思う。そこが私は教えによって、それが何かのかたちによってそれが成されていかなければならないと。ね。「口に真を語りつつ、心に真の無き事」とこう仰るけれども、ね、自分の心に真が無いことがあると。自分の心にも暖かい心が無いことがあるけれどもです、ね、けれどもならそれを放任してはならないということ。
せめて形の上だけでも暖かいもの、ようなふうだけでもせにゃいけんという事。私そんな事がよくあります。ね。言わば、いうなら冷たい心で人の話を聞いているわけなんです。それでもやはりあの、ふうだけは心(しん)から頂きよるようにして頂くんです。そうするとですね、相手の人が一生懸命、例えば私に何かを訴えておられるような場合なんかですね、その人の情がこちらに通うてくるです、不思議に。そして今まで情のなかった心の中からその情を引き出して下さるです。
なんでもないと思うて聞きよった事がです、こちらまで<なんでもない>ように有難うなってくるもんです。形だけで。だからここんところをお互い、お互いの心の中を本当に改めたらですたい、そういうことだろうと思うんです。ね。いくら情の深い人というてもです、やはり自分の心の中にもこういう冷たい、冷淡な心があるということをです、感ずることがあるんです。ね。そこに久富さんじゃないけれども、日頃頂いておる教えというものを生かしていかなければだめだと思う。
私は今日ある人の冷たい態度に触れた時、も、こっちのほうが冷とうなってしもうた。一時。神様に私はそのことをおすがりさせて頂いた。そしたらね、『八つ手のね、八つ手の葉の枯れかかっておるところ』を頂いた。八つ手の葉というのはおかげを受ける。大きなおかげを頂きたいちいうわけなんですね。八つ手のごたるような手を差し出してから、おかげおかげというて、いつか御理解頂いたことがあるんですけれどもね。それももう枯れかかっておる八つ手。おかげを頂きたいけれども、心が枯れておる。
丁度私そのことを祈らせて頂いとりましたら、『緘封(めっぷう)』ということを頂いた。あの手紙なんかに書くでしょ。封をめっすると書いて、ね、めっぷう。めっぷうする。糸偏にこう書いてあるですね、あの感ずるの下に心のないやつです。ね。私共は信心させて頂いてです、やはり様々な堕落な心とか、横着な心が出ることがあります。けれどもね、それは神様がですね、お気付けをもっておかげ下さるです。堕落しておりますとですね、神様がお気付けをくださるです
。横着なことを言うたりしたりしておりますとですたい、神様がお気付けをくださるです。ところがですね、もういよいよ冷たい人ばかりはね、お気付けも頂きませんです。なぜって、めっぷうされておるから。ね。神様と私共との間のです、言わば、糸偏がこう書いてあるですね。神様との間の糸が切れる。神の糸が、神の綱が切れたというが、神からは切らん、氏子から切るなと仰る。冷たい心がでる時、こちらから神の綱を切っとると同じことです。しかもそれが封じられとるです。
ですから勿論、だからお気付けも頂きませんですね。お気付け頂かんからというてです、平気でおるような事では私はおかげにはならん。お気付けを頂くという事はだから有難い。だから堕落しなさいという意味じゃないですけれどもです、私共が本当に「信心とは日々の改まりが第一」と。「信心とはわが心が神に向こうていくのが信心」とこう仰るように、私共が日々の改まりに改まりを重ねさせてもろうて、神様に向こうていくところのおかげを頂く時にです、言わば神情(しんじょう)が育っていく。
私共の場合にはですね、そりゃもう後で神情だと自分で気付くことがあります。本当にまあ言うならば先生は冷血漢じゃなかろうかというような事がございます。ね。けれどもその向こうには、もう大変な何かしらんけれども、神様に通うものがある時、いうならばこれはおかげです。今晩御祈念中に、今日は桜井先生が一週間の断食をしておる、言わば日あけの日なんです。どうもこの頃家内にその事を注意していなかったが、もう十二時過ぎたらもう八日目だから。
お粥さんなと、炊いとってくれればよいが、といったような事を、ふっと思ったら有難うなった、私自身が。ね。本当にその暖かいという心を持たなければ、自分が有り難くなれないです。例えば歌舞伎の女形なんかの場合、男が女になります。ね。女の衣装をつけて、女の鬘をかぶりますともう、本当に女としか見られないように、綺麗に化粧いたしますから、女と見違えるようにあります。自分のその髪型、女は髪かたちと言ったようなことを申しましょうが、ね。
お互いの信心が、言わば信心の髪かたちで、その人の信心が良いの悪いの、素晴らしいの素晴らしくないのという事が決まるのです。信心を身につけておりましてもです、ただいきなりさんぱち髪を乱らかしたなり、で、例えばしとったんでは髪かたちという事になってまいりません。綺麗に梳きあげられて、それが綺麗に結いあげられた時に、女は髪かたちというように、信心させて頂いておる者の髪かたちというものが、なるほど信心させて頂いとれば有難いな、いいなあという事になりますけれども。
それが乱れておったらどうでしょう。信心してたっちゃ、あげな冷たい人だ。信心してたっちゃ、あんなにろくそな事だ、という事になりますでしょう。けれども自分からおえた髪ではなくてもです、鬘かぶっとっただけでもです、いうなら嘘なんです。嘘の真なんです。ね。しかし嘘の真でもよいから自分の心の中にそういうものがないならばです、ね、形だけでもよいから真の親切を、暖かいふうでもさせて頂きよるうちにです、向こうのほうから引き出してもらえるおかげが頂けるです。ね。
私は本当にそこんところを改まっていかなければいけない。ね。おかげがめっぷうされたら、どういたします。ね。心が枯れかかっておったんではです、ね、それでは今朝の御理解ではないけれども、ね、ここにどういう生き生きした働きがありよってもです、私共の心の中に生きたものがなからなければ電気と同じことなんです。こちらだけが生き生きしとっただけでも出来ん、こちらだけが生き生きしとっただけでも出来ん。生きたものと生きたものがこの触れおうて電流が通う。ね。
精米所ならば精米のあの大きな機械が回りだすだろう。製材所であるならば、ボタンひとつであの大きなノコが回りだすだろう。というようなおかげになってくるためにです。そりゃ信心しとるからにはです、どんな冷たい人でもです、ね、冷たくなりきってしもうてはおらん。ハァーこんな事じゃいけんと思いよるには違いはない。けれどもです、形だけでもよいから努めていくようなお繰り合わせを頂かにゃいけん。
自分の好きなものだけに、自分の気分のおうたものだけに親切に、暖かい情を持ってみせておるごたるけれども、それは決して神様に通うておる情じゃない。片一方のほうみて、自分の嫌いなもんやら、そう関心のもたないものやらがおった時には、もう冷たくしておったら、そりゃもう本当な心じゃないことが分かるでしょう。ね。神様からね、お礼の言うてもらえれるような私は情を使いたいと思う。
「麻生さん、どうも御苦労さん。」私は神様が、お礼を言いなすったような気がするんです今日は。ね。不調法がありましたり、ね、横着、実意を欠いだり、ね、信心が堕落をいたしましたり、それならば神様がです、それならそれに対して、お気付けを下さるのです。この頃お前は横着になっとりゃせんか。この頃お前は堕落しよるぞと。というてお気付けを下さるです。
ところがね、この冷たいという人だけにはもう神様が手の施しようがあんなさらん感じがいたします。ね。今日の御理解を頂いてそれを感じます。神様との私共との間の糸が切れる。ね。めっぷうされる封じられる。ね。お気付けも自分が冷たくても、例えばああこんなに冷たいというような時にですね、お気付けも頂かんごとあるなら、愈々冷とうなっとる時ですから、私はここんところを改まっていかなければいけない。
私はそう思うんです。ね。例えば情の強い人がです、どんなに情を使うてです、しとってもそれだけで良いのではありません。ね。こちらの方にはいわば冷たい態度をとるならば、それは本当なもんじゃない。自分の気分でしよるだけのこと。神様に通うもんじゃない。間違いだらけですけど、間違うたら神様からお気付けのひとつも頂けれる位な信心にはひとつならして頂かなきゃいけないと思うですね。おかげ頂かなくてはいけません。